[トップに戻る]

満員御礼!

宇部市民オーケストラ

第5回定期演奏会

2003年3月2日(日) 開場13:00 開演14:00

会場:宇部市渡辺翁記念会館

入場料:1000円(高校生以下500円)

ベートーヴェン 交響曲第1番 ハ長調 作品21
チャイコフスキー 交響曲第4番 ヘ短調 作品36

指揮:広上 淳一(元日本フィルハーモニー交響楽団正指揮者)

主催:
宇部市民オーケストラ

後援:
宇部市、宇部市教育委員会、NHK山口放送局、TYSテレビ山口、KRY山口放送、YAB山口朝日放送、朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞西部本社、ウベニチ新聞社、宇部時報社、渡辺翁記念会館、宇部好楽協会、宇部音楽鑑賞協会

プレイガイド:
宇部TYSカルチャーセンター、宇部井筒屋、イトオ楽器店、小野田サンパーク、サンパークあじす、フジグラン宇部、その他ポスターのあるプレイガイド

お知らせ:
当日託児所を準備しております。1名につき300円(保険料含む)ご希望の方は事前にご連絡ください。(担当:栗林 0836-51-7605) 当日は駐車台数に限りがございます。また、駐車後は車の移動ができません。なるべく公共の交通機関をご利用ください。

お問合せ:
宇部市民オーケストラ事務局 佐藤クリニック内 FAX0836-32-7514
e-mail: ube-oke@crocus.ocn.ne.jp

宇部市民オーケストラ(佐藤育男団長)は14日、来春の第5回定期演奏会に向けての練習を開始した。節目の演奏会には、世界で活躍する指揮者、広上淳一さん(東京音楽大学客員教授)を迎え、これまでと違った演奏を披露する。本番は3月2日、渡辺翁記念会館で開く。

 初練習は楠町総合センターであった。広上さんと100人の団員たちの初顔合わせ。大きな声や動作での情熱的な面と、ところどころにユーモアを取り入れたメリハリのある指導で、団員たちはリラックスした表情でベートーベン「交響曲第1番 ハ長調 作品21」やチャイコフスキーの「交響曲第4番 ヘ短調 作品36」の演奏曲の練習に取り組んでいた。

 佐藤団長は「広上さんを指揮者に招き、これまでと違った演奏を披露できるのでは。演奏会も5回目を迎えることができ、とてもうれしい」と話した。


 広上さんは1958年生まれの44歳。79年東京音楽大学入学。84年アムステルダムで行われたキリル・コンドラシン国際青年指揮者コンクールで優勝。91年から95年まで、スウェーデンのノールショッピング響の主席指揮者をつとめた。同時期、日本フィルハーモニー交響楽団の正指揮者も兼任。イギリスやオランダの交響楽団でも活躍。国際的な舞台で活躍する日本指折りの指揮者。宇部市出身のバイオリニスト、石井啓一郎さんの紹介で、今回の共演が実現した。


ウベニチ新聞から転載

宇部市民オーケストラ 第五回定期演奏会に寄せてー獅子の爪と運命の年ー

団長 佐藤育男

ベートーヴェン 交響曲第一番ハ長調 作品二十一

 ベートーヴェンの九つの交響曲はすべて傑作で、時代を超え民族を超えている。最初の交響曲は、一八○○年、ベートーヴェン29才の作品である。それまでに殆どのジャンルを手がけてきた彼にしては交響曲の作曲は遅いスタートだった。作品番号が一つ若い七重奏曲は実に愉しい室内楽の名曲だが、彼は「娯楽作品はこれでオシマイ」と言ったとか。それだけに、この作品二十一に対しては殊の外慎重だった。当時、交響曲の作曲家にはハイドンやモーツアルトという偉大な先輩がいた。特にハイドンは交響曲の形式を確立し一○○曲以上もの作品を世に出して「交響曲の父」と呼ばれていた。
 さて、この第一交響曲は先輩達の影響が全くないとは言い切れないが、満を侍して世に問うた作品だったのであろう。これまでの交響曲にないスケールの大きさを感じさせる。そのことを故朝比奈隆氏は、「ただごとではない巨大感」と表現して次のように語っている。
 「獅子の爪って知ってますか?ヨーロッパの諺だそうですが、大きさがライオンぐらいの動物はざらにいるけれども、(獅子の)爪が全く違うというんです。草むらから前足を出していて、それでガッとやられたらもう逃げられない。これは諺ですから動物学的な話ではないけれども、つまり一端を見れば全貌がわかる。この『一番シンフォニー』はその獅子の爪だという訳です。これを見て、これから先のものが獅子だとわからない奴は獅子に食われてしまう‥。」(「朝比奈隆 ベートーヴェンの交響曲を語る」音楽の友社)この喩えのように、この曲は全体の骨組みがしっかりしているので大編成のオーケストラによる演奏にも充分耐えることができ、編成が大きくなればなるほどスケールの大きさがより感じられる曲である。モーツアルトやハイドンの曲だとそんな訳にいかない。

 第1楽章 アダージオの序奏に続いて、アレグロ・コン・ブリオの第1主題が奏される。アレグロ・コン・ブリオは、以前「第五交響曲」について寄稿したときもも書いたが、ベートーヴェンがこのあとの交響曲にもしばしば用いた特有のリズムで、ただのアレグロではない。「コン・ブリオ」つまり「溌剌とみなぎりあふれる活気をもって」輝かしさと突進力を併せ持つアレグロである。そして、第三十一小節目のフォルテッシモに向かうクレッシェンドは獅子、それも若い獅子が躍り出てくるようでワクワクする。私は、この曲にしばしば用いられるクレッシェンドとsf(スフォルツアンド)の弾き方如何で演奏の評価が決まると思っている。
 第2楽章。アンダンテ(歩く速さで)・カンタービレ(歌うように)・コン・モート(動きをつけて)。ゆっくりと歌うように演奏されるきれいな楽章だが、これまたベートーヴェン特有のリズムである。コン・モートという注釈からも明らかなようにこの緩徐楽章の基本拍は四分音符ではなくて八分音符である。その八分音符の弾むようなシンコペーション(後打ち)のリズムが美しい旋律の緻密な絡みを支える。
 第3楽章。これぞベートーヴェン!これまでのような優美なメヌエット(舞曲)とは全く違う。同じ三拍子でも一小節を一拍で数えるしかないほどの速いテンポ、さらにはベートーヴェン特有の変化するリズムはメヌエットとは名ばかりの実質スケルツオである。
 今回の指揮者、広上淳一氏は宇部市民オーケストラとの初稽古で、まずこの楽章をとり上げた。オケの実力をみるにうってつけの楽章だったのであろうか。氏は、初めこの楽章を団員の弾くに任せた。それから、やおら一つ一つの音符の持つ意味や役割を細かく提示し、体全体を使って大きく指揮しながら見違えるような‥いや全く別の曲かと思うほどの、いきいきと歯切れの良い曲に仕上げたのである。私は曲が生まれ変わるさまを目のあたりにして感動した。
 第四楽章。テンポが前の楽章と同じアレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ(アレグロよりもっと速く活きいきと)のせいか、初めの六小節に序奏が割り込むように入る。冒頭のトウッティ(全奏)からヴァイオリンが抜け出て一つずつ音を増やしながら、次第に高く飛び上ろうとするが、この上り方が主題への助走のように思えて私は大好きだ。まず三つの音(ソラシ)、次は四つ(ソラシド)、五つ(ソラシドレ)、六つ(ソラシドレミ)、そして七つ(ソラシドレミファー)のフェルマータからヴァイオリンが跳び出してきて、それからは火の出るような速さと天馬空を行くかのような躍動感が織りなされて全く見事としか言いようがない。CDはトスカニーニ盤。

チャイコフスキー 交響曲第四番 ヘ短調 作品三十六

 ベートーヴェンの交響曲が世に問う作品だとすれば、チャイコフスキーの交響曲は魂の告白だと言われる。この曲はベートーヴェンの運命にヒントを得たとも言われ、襲いかかる運命に苛まれ彷徨する姿が執拗に描かれている。しかし、チャイコフスキー生来の性癖や欝の悩みが色濃く反映された美しくも暗い曲想、そして沈鬱と激情が交錯する構成はベートーヴェンの苦悩から歓喜へという図式とは少し違うように思われる。
 作曲された1877年は、彼にとって「運命の年」だった。彼が生涯に関わった女性は二人しかいないが、二人ともこの年に深く関わっている。一人は彼の芸術の保護者として登場した九才年上のフォン・メック未亡人である。彼女は、チャイコフスキーの熱烈な崇拝者で、彼の経済的な窮状を知ると年に六,○○○ルーブルもの大金を送り彼を救った。しかも絶対に会わないことを条件に‥。そのプラトニックな友愛に感謝した彼は、この交響曲の作曲を思い立ち、完成後は「最愛の友へ」という献辞をつけて彼女に捧げたのである。さらに作曲家としては珍しく、この曲を「私たちの曲」と呼んで楽譜まで付けて夫人に説明文を送っているが、ここでは省略させて戴く。(当日のプログラムをご参照戴きたい。)もう一人は、彼に突然愛の告白文を送りつけ、断われたら自殺すると結婚を迫ったアントニナ・ミリュコーヴァという九才年下の教え子だった。僅か一週後の破局は、チャイコフスキーが自殺を図ったほどの打撃を彼に与え作曲も中断された。しかし、メック夫人からの送金のお陰で妻からスイスに逃避したことにより彼の心は癒され作曲も再開された。夫人との世にも不思議な交際については別の機会にゆずるとして、今回は彼の不幸な結婚について書かせて戴く。
 チャイコフスキーの弟、モデストによると、「破局の原因は、アントニナが彼の音楽を理解する力もなく、モスクワ音楽院の教授夫人となる教養も持ち合わせていなかった。兄のショックを伝えても心配する様子もなく、逆に彼女を追いかける男がいかに多いかを滔々と喋るような女だった。離婚後は多くの男性遍歴を重ねた末、最後は精神病院で死んだのだ。」と、一方的に兄を弁護する伝記を書いているが、果たしてそうだったのであろうか?
 ここで公平を期するするために、アントニナの回想記(一八九一、四、三)を引用すると、「夫は、法律学校生の頃から、私の親戚の家によく遊びにきていたそうです。初めて彼に会ったのもその家でした。私がまだ音楽学校に入る前のことです。」(‥となると、相当前からの知り合いということになる。)「その後、私は音楽院に入学して4年間以上も彼に恋をしていました。‥私は彼に気に入られていたことはハッキリしていましたが、彼は恥ずかしがり屋で決して私に申し込みをしてくれようとはしませんでした。そこで、私は意を決して手紙を書きました。すると彼はすぐ返事をくれて文通が始まったのです。そして、ある日のこと彼は家にやって来て、『老人に近い私と住むのは退屈でしょう?』と訊ねたので、『私はとっても貴方を愛しているから一緒にいれるだけでいい』と答えると、彼は明日まで考えさせてくれと言って帰りました。翌日やって来て、『私は一度も女性を愛したことはないし、熱烈な愛情を持つには年をとりすぎている。でも、貴方は僕の気に入った最初の女性だ。もし貴方が静かで平穏な愛で満足するなら、貴方に結婚を申し込む。』と言ったので即座に承諾しました。しばらくして、もう帰る時間だと彼が立ち上がり、とても魅力的に優雅な身振りで、両手を広げて『さあ?』と言ったので、私は彼の首にとびつきました。このキスを私は決して忘れません。‥中略‥結婚式のあと、周りの者が『家庭生活が彼の才能をダメにする』とさかんに言って、二ヵ月半で別れさせられました。私には何がなんだかさっぱりわかりませんでした。」(「新チャイコフスキー考 没後一○○年に寄せて」森田稔著、NHK出版)
 森田稔氏は彼の結婚について、「結婚の前年、弟モデストに宛てた手紙には、『僕は結婚する決心をした。自分のためだけではなくお前達や僕が愛している人達のためだ。‥中略‥×××(この部分はソ連当局によってカットされている)は共存することはできない‥。』と書かれているが、この×××の意味するところは一体何なのだろうか?‥中略‥このようにカットされた部分の多い手紙が『全集』と銘打ちながら厳しく検閲されているのもいささか理解し難い。最初は近親者によって、そして後にはソ連当局の価値観によってチャイコフスキーの伝記的資料は大幅な改ざんが加えられてきたのである。‥一方、チャイコフスキー研究家のボズナンスキーは×××の部分を(ホモセクシャルと教師)だと推察しているだ‥」と述べている。ヘルム著「チャイコフスキー」(許光俊訳 音楽の友社)にも奇妙な記述がある。蜜月の様子を弟アナトーリに宛てた手紙には、「‥彼女は単に私を小鳥のように可愛がり、母親のように世話したいだけだ。私は身体の自由を守った。‥中略‥私は彼女が当てにしてもいいのは兄弟的な愛のみだと、ハッキリ説明してやった。」とある。 はてさて、もし、ボズナンスキーの推察が正しいなら、チャイコフスキーは自分の同性愛を世間から隠すための結婚を一年以上も前から考えていたことになる。アントニナはその犠牲者であり、チャイコフスキーにとって作曲を続けることだけが何よりも大切という価値観をメック夫人も共有していたことにもなる。
 伝記というのは、一般的にその人物の良い部分だけを強調しているが、チャイコフスキーの場合、ソヴィエトの教科書にある「偉大なヒューマニストにして進歩的芸術家」像があるかと思えば、一方には欧米の大衆向け伝記のような「感傷的でほとんど憂鬱症患者の同性愛者」像とに二分されているようである。ペレストロイカによって、チャイコフスキーの真実が明かされれば、作品の解釈にもまた新たな光が当たることであろう。
 CDはムラヴィンスキー盤。洗練されたロシア出身のヨーロッパ人でありながら、同時に骨の髄までロシア人だったチャイコフスキーの芸術を見事に表現している。

 それでは、三月二日(日)午後二時に渡辺翁記念会館でお会いすることを楽しみに。

ウベニチ新聞(2003.2.13)から転載


(C) Copyright 2002 Ube Citizen Orchestra