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第九雑感 その3「フルトヴェングラーのバイロイト盤」 宇部市民オーケストラ 団長 佐藤育男 (2007年3月15日 宇部日報掲載記事)

第九について。合唱の部分しか聴いたことがない方々に簡単にご説明します。

1楽章の巨大な宇宙、第2楽章の俗世の戦いと天上への憧れの鮮やかな対比、そして第3楽章のベートーヴェンが最晩年に到達した究極の美しい祈り・・は、これまでの、どの作品よりも深く劇的で、ぜひお聴きいただきたいものです。

これまでの作品が、聴覚を失った苦悩、絶望から一度は死を覚悟したものの苛酷な運命を克服した音楽(芸術)の力、自然への愛、神への祈り等々自己の内部に向いていたのに対し、第九は自己から外へ、それもはるか遠い空間へと広がっています。国民、人種を超越して、「すべての人々は平等に歓びを分かつことができる」と全人類に向かっているのです。第1、第2楽章の苦悩が第三楽章で癒され、自身を救うことができなかったイエスと重ねるかのように、全人類が神の前で「歓喜の歌」を謳い上げる第四楽章へとつながらないと、あの魂がゆり動かされるような感動は得られません。

さて、今回は少しこみいった話で申し訳ありませんが、楽譜を片手にお聴きになるような熱心な音楽愛好家の方々にも読んでいただければ幸せです。それは、フルトヴェングラー(以下、フ氏と略)のバイロイト盤(1951年)に関する話です。

愛好家の皆様はこのLPの素晴らしさを充分ご承知のことと思いますが、金子建志氏は次のように評しています。「20世紀を代表する名指揮者フルトヴェングラーは、第2次世界大戦中も祖国に留まりドイツ音楽を死守しようとした。その結果、ナチに利用されヒトラーのために第九を演奏せざるを得ない状況に追い込まれていった。こうした状況は、一旦は英雄視したものの裏切られたナポレオンにウィーンを席捲されてもなお留まって作曲し、人間開放を謳うベートーベンの姿勢と重なる。フ氏の第九が強く訴えかけてくるのは、こうした歴史の体現者としての苦悩が重く刻印されているからではないだろうか。終楽章で『歓喜の主題』が低弦から歌いだされる直前や、『神の前に!』で前半部を締めくくる際の、極限的なフェルマータは、単なる演奏効果を狙ったものではない。心からの祈りと聴くべきであろう。第3楽章も絶品だ。」(「聴く音楽史」音楽の友社)

・・確かにナチ支配下という地獄に留まり続けたフ氏はベートーヴェンの苦悩を誰よりも追体験していると思います。私はこの20世紀を代表する文化遺産をこれまで何十回となく聴いてきましたが、聴く度に「楽譜の裏を読む」解釈に感動します。その原点は、「作曲の動機から試行錯誤を経て完成に至るまでの過程を逆に辿り、そこに封じ込まれた魔法(特に即興性)を解き明かす」姿勢にあります。(「運命」雑感、ウベニチ、2001210

そこで本題、第九の出だしについて。

4年前、私はフ氏の「楽譜の裏を読む」解釈を強く感じた文章に出会いました。元ケンウッドUSA会長、中野雄氏の「ウィーンフィル 音と響きの秘密」(文春文庫)と題する本の中で、氏の恩師である故丸山眞男東大教授(専門は日本政治思想史。前回、モーツアルトのピアノ協奏曲K491雑感にも紹介された楽譜を読む音楽愛好家)と第九について話し合っている部分です。少し長くなりますが引用しますと、

丸山「第九の始まり、第1楽章の最初の16小節ですがね。第2ヴァイオリンがニ短調の属和音の空虚五度を、6連音符でトレモロみたいにピアニッシモで弾くでしょう。フ氏の盤では、第2ヴァイオリンが揃ってないように聴こえる。12人か14人か知らないけれど、アンサンブルがズレて聴こえるんです。彼の第九ではこのバイロイト盤がいちばん音が良いから判りやすいんですが、ほかの演奏を注意して聴いてみても同じなんですね。彼の指揮棒の動きは極めて独特で、アインザッツがとても判りにくかったそうですから、棒のせいでああなってしまっているのか、それともフ氏がはっきりとした意図をもってあのような指示を出していたのかー真相をどうしても知りたいんです。・・僕としては、インテンショナル(意図的)と思いたいんですが。」

(中野氏の説明)第九の調性はニ短調である。だから属和音は、<ACisE>の3音。ところが、この曲のように、導音のCisが抜けた<AE>だけが奏されると、響きは落ち着き場所を失って虚ろな印象を聴く者に与える。いわば中抜けの形で鳴らされる和音が「空虚5度」と称されるのはそれ故で、聴き手の心に生ずる反応は不安感、ときには未知なるものに対する期待感である。「・・ウィーンフィルの古い楽員で、フ氏の第九を演奏したことのある人がいたら訊いてみてくれませんか。『第2ヴァイオリンの6連音符が微妙にズレて聴こえるのは彼の意図か』って。チェロも弾いている筈だけど低い音だし、録音では違いがわからないね・・。」

後日ウィーンを訪れた中野氏は、ウィーンフィルの元楽団長で第2ヴァイオリンのパートリーダーだったヒューブナー氏にその疑問をぶつけました。氏は「それは、フ氏の指示ですよ・・。」と即座に答え、曲=楽譜、そして解釈という演奏芸術の本質論から説明を始めたそうです。

 ヒューブナー「・・フルトヴェングラーは第九交響曲という音楽を、聖書の創世記から人類の未来に至る、人間世界の理想像形成のドラマ・・と解釈していました。『苦悩を通じて歓喜へ』というベートーヴェン壮年期の作品に共通した典型的な想念から一段飛躍昇華したものを表現したいと考えていたんです。例えば、第1楽章の冒頭はカオス(渾沌)です。宇宙塵。茫漠とした宇宙の霧。焦点も、具体的な形象も存在しない、個体形成以前の宇宙空間の表現なのです。だから調性はあいまいに書かれています。私たち第2ヴァイオリンが弾く空虚五度に導音のCisが入ったら、調性がはっきりして曲のイメージが全く変わってしまう。6連音符を連ねるという書法も、同じ考え方だと思います。 “不安定”の表現なんじゃないんでしょうか。ベートーヴェン自身は、具体的な説明は何もしていないけれど、曲の冒頭をこう考えると第四楽章までの構成が非常にわかりやすい・・。」

私も楽譜片手に聴きなおしました。が、手持ちの数枚を何度聴いても出だしの不揃いは確認できません。復刻して音が鮮明になったという何種類かのCDも駄目でした。ところが、昨年の11月にデルタ・クラシックスから発売された復刻CDの音は抜けが大変良く、やっと聴き取れた次第です。それにしても故丸山教授の耳(センス)の良さには驚きます。お陰でバイロイト盤は10枚以上にもなってしまいましたが、第一楽章の大宇宙を今更ながら感じることができて幸せです。

318日の公演では若き名指揮者広上淳一氏がどう振るか、楽しみです。そして、河野克典さんはじめ各ソリストの名演、第九を歌う会の熱唱、宇部市民オーケストラの熱演を期待して今から心が弾んでいます。

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