[トップに戻る]

満員御礼!

宇部市民オーケストラ

第4回「クラシックの午後〜気軽にオーケストラ」

2002年9月1日(日) 開場13:00 開演14:00

会場:宇部市渡辺翁記念会館

- 山口大学医学部同窓会「霜仁会」創立50周年記念 -

入場料:1000円(高校生以下500円)

<映画に使われたクラシックと映画音楽特集>

モーツァルト 交響曲25番 ト短調から第一楽章
リスト 「前奏曲」
風と共に去りぬ
ライムライト
エデンの東
ウェストサイドストーリー
ムーンリバー
スターウォーズよりメインタイトル
風の谷のナウシカ

主催:
宇部市民オーケストラ
山口大学医学部同窓会「霜仁会」の創立50周年記念事業実行委員会

後援:
宇部市、宇部市教育委員会、NHK山口放送局、TYSテレビ山口、KRY山口放送、YAB山口朝日放送、エフエム山口、朝日新聞社、毎日新聞山口支局、読売新聞西部本社、ウベニチ新聞社、宇部時報社、(財)渡辺翁記念文化協会、宇部好楽協会、宇部音楽鑑賞協会

プレイガイド:
宇部カルチャーセンター、宇部井筒屋、イトオ楽器店、サンパークあじす、小野田サンパーク、フジグラン宇部、その他ポスターのあるお店でお求めください

お知らせ:
当日託児所を準備しております。1名につき300円(保険料含む)ご希望の方は事前にご連絡ください。(担当:大村 083-927-6156) 当日は駐車台数に限りがございます。また、駐車後は車の移動ができません。なるべく公共の交通機関をご利用ください。

お問合せ:
佐藤クリニック内 宇部市民オーケストラ事務局 電話0836-32-7500

第4回「クラシックの午後ー気軽にオーケストラ」に寄せて

-映画音楽とクラシック-

                        団長 佐藤育男

 私が少年時代を過ごした熊本市は学生の街として有名だった。学生さんは将来国を担う人材として大切にされた。出世払いはしょっちゅう‥とは言わないまでも往々にしてあることだった。大学生は勿論のこと、中・高生に対しても喫茶店や映画館の規制は全くなかった。私も中学生になると制服姿にカバンを下げてどこにでも出入りしたものだ。映画少年だったから映画館をハシゴして年間二百五十本は観ていた。「雨に唄えば」に感激して二週間の封切り期間中に五回も行き、主演女優のデビー・レイノルズにファンレターも出した。辞書と首っ引きで書いたわりにはIt wasfun.で終わる幼稚な文章だったが、ほどなく分厚い封筒の返事を貰った。上品な便箋にきれいな筆跡で、「雨に唄えば」が自分にとって最高の作品であること、ジーン・ケリーは全てにパーフェクトであること、熊本のような緑の多い街に行ってみたいことなどが書かれていた。そして同封されたブロマイド写真を見て目が眩んだ。彼女の可憐なポートレートのはずがまるで裸同然で写っていたのだ。その後の一週間は腑抜けみたいだと友達に言われた。当時は映画雑誌でもジェーン・ラッセルとマリリン・モンローぐらいしか拝んだことのないセパレーツという水着姿(写真)だった。高校時代は、映画のあと音楽喫茶でクラシックを聴いていた。だから映画と音楽の間を絶えず行き来する毎日だった。映画を観るときは画面に流れる音楽に耳をすまし、当時はクレディット(ポスターなどに名前がでること)されることの少ない音楽担当者を推量した。そして、使われた音楽について監督の意図を考えたものである。印象に残っている音楽は、「逢引き」や「七年目の浮気」に使われたラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、「第三の男」、「ファンタジア」、「真昼の決闘」、「皇帝円舞曲」などで、当時の映画音楽を聴くと、「ああ、昔の映画が観たいな」と思うことがしばしばである。昔の映画館はスクリーンが大きく立派だった。今は映画館もビデオも画面が小さく迫ってくるものがない‥と言いながらも、ときにはシネマ・スクエア7に行ったりDVDを見ているこの頃である。 さて、このたび宇部市民オーケストラは映画音楽を特集することになった。本団はクラシックを演奏する団体なので、「映画音楽とクラシック」という切り口で選曲し演奏することにした。映画音楽には独特の和音やリズム進行があり、流麗に‥という訳にはいかないが、目下団員一同猛練習中である。

 映画音楽の歴史をひもとくと、映画とクラシックは密接な関係にあることがよくわかる。クルト・ロンドン著による「映画音楽(Film Music‥外国ではスクリーン・ミュージックとは言わないようだ‥)」には、「映画音楽は映画の誕生と同時に誕生していた」ことが書かれている。一八九五年、ルミエール兄弟によって初めて公開された映画には、既にピアノ伴奏がついていたそうだ。プログラムソースは勿論クラシックだった。愛の場面ではセレナーデ、戦闘の場面ではウィリアムテル序曲の行進曲といった具合に、既成のクラシック曲のなかからその場面の雰囲気に合った曲が使われたとのことだ。

 映画発祥の国フランスでは、クラシックの作曲家が皆一様に音楽の新しいジャンルに興味を持った。まず大御所のサン・サーンスが、一九〇八年、歴史上初の「ギーズ公の暗殺」という映画の専用音楽を作曲した。次いでフランス六人組も特定の映画の為だけの音楽を作曲するようになる。なかでも、オネゲルの映画「鉄路の白薔薇」の音楽はのちの名曲「パシフィック二三一」となり、オーリックが美女と野獣、赤い風車、ローマの休日などに付けた音楽は映画史に残る作品となった。その後、ショスタコヴィッチ(ハムレット)、プロコフィエフ(キージェ中尉)、ハチャトリアン(小さい逃亡者)、ヴォーン・ウィリアムズ(南極交響曲)、ブリテン(青少年のための 管弦楽入門)、コープランド(二十日鼠と人間)、バーンステイン(波止場)など、各国を代表する作曲家が積極的に映画音楽に参加している。

 一九二〇年代になると、アメリカ、特にハリウッドはヒトラーが迫害したユダヤ人の亡命音楽家を積極的に受け入れた。その結果、映画音楽は一九三〇年代にハリウッドで、マックス・スタイナーらヨーロッパ出身の作曲家によって確立された。その音楽の基盤はクラシックだった。特にドイツ後期ロマン派の流れを汲んだシンフォニック・スコアが主体で、言い換えれば、ドイツ後期ロマン派の音楽はハリウッドに継承されたのである。

 その中心人物であったスタイナーやコルンゴルトは、幼くしてリヒャルト・シュトラウスやグスタフ・マーラーから天才のお墨付を貰った優れた音楽家だった。しかし、ユダヤ人のため故郷のウィーンでは作曲活動はおろか生命さえ危うい目に遭い、仕方なく求めた活路がハリウッド映画音楽だったのである。マックス・スタイナーの音楽は、従来の状況を説明する音楽とは異なり、登場人物や事態にテーマを与えワーグナー流のライト・モチーフを用いて映画における音楽の重要性を一段と引き上げた。そして、一九三五年に、ジョン・フォード監督の「男の敵」で初のアカデミー音楽賞を獲得して以来、代表作の「風と共に去りぬ」をはじめ、カサブランカ、壮烈第7騎兵隊、スター誕生、初恋、トロイのヘレン、ケイン号の反乱、避暑地の出来事など素晴しい作品を三百以上も書いた。また、ロシア人のディミトリー・ティオムキンもアメリカ映画に欠かせない作曲家である。ロシア帝政時代、名門セント・ペテルスブルグ音学院に入学して間もなく、作曲家で院長だったグラズノフの勧めで皇女バリアチンスキーの歌の伴奏をつとめた。それが縁で二人は恋に落ちるが、第一次世界大戦とロシア革命勃発によって離ればなれになる。彼はパリに逃れ、コンサートピアニストとしてデビューした。そして、ラブレターを交し合うが、やがてその恋は破れてしまう。かくして、彼はハリウッドに行き、一九五二年、ゲイリー・クーパー、グレース・ケリー主演の西部劇「真昼の決闘」の音楽と主題歌を書いた。「映画音楽の歴史」の著者早崎隆志氏は、「ところがこの名作も、ほとんど音楽を付けずに行われた最初のプレミア上映では、惨憺たる失敗に終わったのです。その時ティオムキンは、『歌があればこの映画は救われる。たぶんメロディと抒情的な詩が映画に翼を生やすことが出来るだろうと感じた』と言います。そこで彼は、バラード調の主題歌と、主題歌の変奏に基づく緊迫したドラマティックなアンダースコアを書きました。その結果、映画は正当な評価を得ることが出来たのです。この映画が古典的名作となったのは、ティオムキンの音楽と、ワシントンの詩のおかげといっても言い過ぎではなく、スコアがいかに映画全体の出来を左右するかのいい見本となりました。」ということである。これがアカデミー賞の二つの部門(劇音楽賞と主題歌賞)を獲得するところとなり、その後、友情ある説得、リオ・ブラボー、OK牧場の決闘、許されざる者、老人と海、アラモ、北京の55日、紅の翼、ナバロンの要塞など、最もアメリカ的な西部劇を中心に百六十本の映画音楽を作曲した。再び早崎氏によれば、「ティオムキンが『紅の翼』で再びアカデミー賞に輝いたときの受賞スピーチは傑作です。『‥紳士淑女の皆様、私はこの映画の都で二十五年間にわたり働いて参りましたが、私を成功に導き、この都に芸術的価値を加えた大変に重要な人々に感謝を捧げたいと存じます。ヨハネス・ブラームスさん、ヨハン・シュトラウスさん、リヒャルト・シュトラウスさん、リヒャルト・ワーグナーさん、ベートーヴェンさん、リムスキー=コルサコフさん、どうもありがとうございました‥。』会場は笑いの渦に巻き込まれ、ボブ・ホープは『こんなショーには二度とお目に掛かれないよ!』とコメントしました。しかし、彼のキャリアを辿ってきた我々には、彼は意外と本気でこのスピーチを行ったのかも知れないと思われるのです。」‥それにしてもロシア人が西部劇の音楽を書くアメリカも面白い国だ、とつくづく思う。ティオムキンの作品も後期ロマン派のスタイルを生かした音楽だった。このように映画音楽の底に流れるのはクラシックである。

 その後、アメリカはTVの台頭、ヴェトナム戦争、そして経済不況に見舞われる。そのあおりで映画産業は衰退し、お金のかかるシンフォニック・スコアはすたれてしまう。ヘンリー・マンシーニに代表される美しいメロディーの主題歌やジャズ、そして安上がりで大きな音量の出る電子音楽がとって変わり、録音された既成のクラシック音楽が安易に流用されるケースがあい次いだ。一九六八年に奇才スタンリー・キューブリック監督が「2001年宇宙の旅」の冒頭で、リヒャルト・シュトラウスの「ツアラストラはかく語りき」を使ったのも経費削減のための苦肉の策である、‥という独断と偏見をお許し戴きたい。

 そして、一九七七年、「スター・ウォーズ」が公開された時、人々は画面だけでなくその音楽の素晴らしさに驚いた。八十八人編成のロンドン交響楽団が演奏するジョン・ウィリアムズ・サウンドは、壮大な主題を響かせるシンフォニーの快感を久し振りに観客に教えてくれたのである。早崎氏によると、「伝統的なシンフォニック・スコアが復活した背景には、SFX(特殊効果)の目を見張る発達がああります。驚異のSFX映像に負けないためにはフル・スケールの管弦楽の音が必要だったのです。ウィリアムズのシンフォニック・サウンドは、電子楽器やシンセサイザーよりもずっとずっと宇宙の広さを感じさせてくれました。もちろん“伝統的シンフォニック・スコア”と言っても、ウィリアムズのスコアはただ単に昔のハリウッドの厚ぼったいサウンドに戻った訳ではありません。様々な現代的手法を消化し、所々ピリリと辛味を効かせて、よりパワフルになったスコアなのです。」ということだ。

 シンフォニック・スコアの復活以降、映画音楽の歴史は新しい段階に入った。今や若手の作曲家が沢山の魅力的なスコアを書いて、ハリウッド音楽の第二期黄金時代が到来しているかのようだ。私は、「ショーシャンクの空に」や「グリーンマイル」のスコアを書いたトーマス・ニューマンの叙情的な音楽が好きだ。サントラ盤も愛聴している。彼は、スタイナーと共にハリウッド映画音楽の黄金時代を築き上げ、あの有名な二十世紀フォックス映画のファンファーレを作曲したアルフレッド・ニューマンの息子である。一方、大御所ジョン・ウィリアムズ自身も、その後二十五年にもわたって「スター・ウォーズ」の連作を書き続けており、今公開されている「スター・ウォーズーエピソード2」でも、益々パワフルでシャープなスコアを付けている。ルーカス監督に「このエピソード2は、音楽に映画を付けた作品です」とまで言わせた出来映えになっていることは、シンフォニック・スコアの復権時代がまだしばらくは続くとみていいのではないだろうか。 さて、宇部市民オーケストラは、九月一日に渡辺翁記念会館に於いて、「映画に使われたクラシック」にはモーツアルトの交響曲第二五番ト短調とリストの「前奏曲」を、また「映画音楽」は風と共に去りぬ、ライムライト、エデンの東、ウェストサイド・ストーリー、ムーン・リバー、スター・ウォーズ、風の谷のナウシカなどを演奏する予定である。どうかご来場を賜わり「映画音楽とクラシック」の結び付きを確かめて戴きたい。


写真説明:デビー・レイノルズ。最近は、スター・ウォーズでレイア姫を演じたキャリー・フィッシャーの母親と言ったほうがわかりやすい。キャリーは、エディー・フィッシャー(歌手で、デビーと離婚後にエリザベス・テーラーと結婚)との間に生まれた。

ウベニチ 2001.8.24(土)掲載記事より


(C) Copyright 2002 Ube Citizen Orchestra