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宇部市民オーケストラ

第6回「クラシックの午後〜気軽にオーケストラ」

2004年9月5日(日) 開場13:00 開演14:00

会場:宇部市渡辺翁記念会館

入場料:1000円(高校生以下500円)

ロッシーニ 「泥棒かささぎ」序曲
モーツアルト 交響曲第40番
チャイコフスキー「ロメオとジュリエット」
リムスキーコルサコフ 「スペイン奇想曲」

指揮 十川真弓

主催:
宇部市民オーケストラ

後援:
宇部市、宇部市教育委員会、NHK山口放送局、TYSテレビ山口、KRY山口放送、YAB山口朝日放送、宇部日報、宇部好楽協会、宇部音楽鑑賞協会

プレイガイド:
宇部TYSカルチャーセンター、宇部井筒屋、イトオ楽器店、サンパークあじす、小野田サンパーク、フジグラン宇部、その他ポスターのあるお店でお求めください

お知らせ:
当日託児所を準備しております。1名につき300円(保険料含む)ご希望の方は事前にご連絡ください。(担当:大村 083-927-6156) 駐車場が狭いためなるべく公共の交通機関をご利用くださいますようお願い申し上げます。

お問合せ:
佐藤クリニック内 宇部市民オーケストラ事務局 電話0836-32-7500


宇部市民オーケストラ 第六回「オーケストラの午後―気軽にクラシック」演奏会に寄せて

その一、天才の悲劇  団長 佐藤育男

 宇部市民オーケストラは、きたる9月5日に「第6回オーケストラの午後―気軽にクラシック」を渡邊翁記念会館で開く。前半のステージは歌劇「どろぼうかささぎ」序曲(ロッシーニ)と 交響曲第40番ト短調(モーツアルト)、後半は幻想序曲「ロメオとジュリエット」(チャイコフスキー)とスペイン奇想曲(リムスキー・コルサコフ)を演奏する。そこで、今回は前半の二曲について雑感を述べさせて戴きたい。

 「どろぼうかささぎ」は、「セビリアの理髪師」を僅か13日で書き上げた天才の作品。その美しい音楽には、漲るエネルギーとジェットコースターのようなスリリングな快感がある。何小節にも亘るクレッシェンドがこの作曲家の特徴で、「ロッシーニ・クレッシェンド」と呼ばれている。そして、この長いクレッシェンドの到達点では輝かしい音の大爆発に発展する。

   交響曲40番も天才モーツアルトがわずか1ヶ月半で一気に書き上げた三大交響曲の一つである。これほど短期間での作曲は、古来すべての音楽家から驚嘆の的となっている。聴く者にとっても、「誰もが通り、そしてまた帰ってくる」ト短調交響曲であり、必ず二度はのめり込む。

  モーツアルトの短調については、あまりにも少ない作品に反比例するかのように多くの言葉が費やされてきた。曰く、デーモンの世界を覗かせるト短調、ベートーベンを先取りしたハ短調、死を予感させるイ短調・ホ短調(ソナタ)やニ短調(レクイエム)など、彼自身の苦悩を色濃く映し出していると言われている。
しかし、プロ中のプロである彼が個人的な心情を直に表現することなど決してない、とみる専門家も多い。どの曲も凝縮された緊張感が特徴的だが、特にこのト短調交響曲には美しいメロディーと緊迫感あふれるリズムがあり、聴く人の襟を正させる気迫を感じさせないではおかない。

 さて、この曲はわが国のモーツアルティアン(私は勝手に「モーツアルトの達人たち」と呼んでいるが)の人気投票でもベスト5に入る名曲なので、曲の解説は省かせて戴きこの曲を書いた晩年の生き方について思いを馳せてみたい。
 漫画家の手塚治虫氏は知る人ぞ知るモーツアルティアンだった。彼もこのト短調をベスト5の4番目に挙げている。氏のモーツアルト観は厳しい職業観に裏打ちされて興味深い。氏の文章の一部をご紹介すると、

 「・・モーツアルトの作品は、ほとんど売れなかったようである。ぼくは、いかに、モーツアルトが、生涯自分の曲を売ろうと努力したか、ということに非常に興味をもつ。
 今日、情報文化の網は社会を覆いつくし、マスコミに乗った芸術家の強さをしみじみ感じさせる時代である。マスコミに乗るために、さまざまな工作や自己顕示が行われる。大衆への追従や妥協もその一つだろう。これらはぼくのような仕事をしている人間にはとくに重大な要素である。ひらたくいって大衆にアッピールしなければ、名作にしたってどうしようもないということだ。中略。7才で神童とうたわれたモーツアルトを成人したとき待っていたのは、冷ややかなライバルの目と、飽きやすい聴衆の耳だった。ハイドンのように貴族の庇護のもとに一生悠々自適したり、ベートーベンのように強引なまでに聴衆を引き摺る力もなく、喝采と収入を得るために彼は妥協や順応を強いられたわけだ。

 あの厖大な六百余の作品のなかには、はっきり妥協した作曲と思われるものも少なくない。迫力や啓示にとぼしい、むしろ安易な作品もある。しかし、それらがすべて聴衆を意識し喝采を期待した所産だったにしても、なんと、どれもこれも、天衣無縫で明るく優雅なことだろう!たとえば、その前後のピアノ協奏曲にくらべて明らかに『わかりやすさ』を意識して作られたと思われる『K537』にすら芸術の真髄がある。しかも、それさえもついに売れずじまいだったとは! 
 晩年の三大交響曲さえも、なにがしかの生活費を得るための即製品だとすると、これはもう狂気の沙汰である。あの四十番の第四楽章や四十一番の第一楽章のどこに、妥協やサービスの匂いがあるだろう。
 たいへん独断と偏見的な見かたで恐縮だけれども、そういう意味でモーツアルトは誰よりも自作に対して厳しかった、といってよかろう。ぼくは漫画家になって三十年を越したが、まだ仕事に追われているところをみると、この年月を、浮気な読者と取っ組みながら、どうにかレベルを保ってきたのだと思う。だがふり返ってみると、まさにその間、人気と妥協と、マンネリズムとジレンマとの戦いだった。この世界読者に飽きられれば、いかに大家であろうとキャリアがあろうとおしまいなのである。」(「私のモーツアルト」FM選書。共同通信社。)

   一方、日本を代表するモーツアルティアンの一人石井宏氏は、機関紙「モーツアルティアン1983」の中で、次のように書いている。  「モーツアルトの三大シンフォニーは不朽の傑作でありながら、その生い立ちは謎に包まれている。まず第一に、その動機である。[だいたいモーツアルトは、芸術のための芸術家ではなかった。なにかの当てがなければ音楽は書かなかった。](「」の文章に傍点、筆者)しかし、当時のウィーンは真夏に音楽会を開くことはなかったから、これは音楽会の準備ではない。それでは金に困っていた彼が出版社に売り込もうとしたのであろうか?」    ・・さらに第二、第三の謎へと続くが、紙面の都合で省かせて戴く。

 このように、モーツアルトの達人の間でもモーツアルト観は異なるのである。どちらが正しいと判断することは、浅学非才なものにとって難しい・・。だが、 思うに、モーツアルトは長い間流行作家なみに稼いでいた。ずいぶんと豪勢な生活をしたという記録もある。しかし、あるときを境にして自分の作品を厳しく意識しはじめたに違いない。その作品が敬愛する先輩に捧げた「ハイドンセット」ではなかろうか?

 ランドン著の「モーツアルト」(中公新書)には、「ふだんは流れるように書き飛ばすはずのモーツアルトがひどく苦労して書いた六曲の四重奏曲は、ハイドンに献呈されている。その自筆稿は現在大英図書館にあり、ファクシミリの形で手に入る。それらを見ると、彼にしては考えられないほどの抹消や、スタートのやり直し、変更、訂正を行っているのが目に入る。中略。これらの六曲は、卓越していると同時に問題の多い作品だった。単に演奏するのが難しいばかりでなく理解するのも難しい。特に“不協和音”という曲は難しすぎて聴きづらい作品だった。有名な逸話として、ある貴族の家で演奏されたときのこと、第一楽章が終わった途端、怒った公が楽譜を破り捨ててしまったという話がある。これは事実でないとしても、当時の様子をよく伝えている。」と書かれている。

 その後、モーツアルトは次の時代を予測させるような傑作を次々に書くが、楽譜は売れず、当時人気のあったピアノ協奏曲の演奏会を開いても聴衆は集まらなかった。このように作品の芸術性と生活の窮乏の度合いは反比例していく。

 その点、ロッシーニとは天と地の違いがある。ロッシーニの作品は売れに売れた。そのため彼は寝る間を惜しんで作曲した。次々とヒットをとばし一財産を築いた。そして、歌劇「ウィリアムテル」でも大成功をおさめ、国王から勲章を貰ったのち突然筆を折ってしまう。そのとき彼はまだ37才、モーツアルトが亡くなった年令だった。引退の理由は誰にも明かさず二度とオペラを書くこともなかった。その後ボローニャとパリに豪邸をかまえ、パリ郊外のパッシーに別荘を持った。毎週豪勢なパーティーを開き、ボローニャから白トリュフなどの食材や遠くペルーからも銘酒を取り寄せた。金に飽かした材料を用い稀代の「食通・料理名人として料理界に名を馳せた。音楽より料理の天才と呼ばれることを好み、「トウルネード・ド・ブフ・ロッシーニ(ロッシーニ風ヒレ肉の薄切りフォアグラ添え)」をはじめロッシーニ風と名の付いたレシピを数十種も残した。高級ワインとグルメを続けた結果、あらゆる成人病を患い莫大な医療費を払った。このように金を湯水のように使い、モーツアルトの倍の年月を生きたのちも、彼の遺産は今の相場で1億5千万円をくだらなかった。

 ・・話を本筋に戻そう。

 ト短調交響曲を書いた1788年、32才のモーツアルトは飢えに苦しんでいた。返済を迫らない友人に縋り、借金を重ねては売らんがための、結局は売れない曲を書き続けた。この名曲も出版社に売れたという記録はない。1791年12月5日、臨終の床で、彼は妻や子に十分なことをしてやれずに死んでいくことを激しく悔やんだという。

 音楽史上並ぶもののない天才、オペラの本場イタリアの天才ロッシーニでさえ「北の国がモーツアルトを生んでからというもの、われわれ南国人は自分の土俵でも負けてしまった」と嘆いたように、全ての分野に天賦の才を発揮したモーツアルト、彼の悲劇は天才の芸術作品を時代が受け止めきれなかったことにある。


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