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宇部市民オーケストラ
第6回「クラシックの午後〜気軽にオーケストラ」
2004年9月5日(日) 開場13:00 開演14:00
会場:宇部市渡辺翁記念会館
入場料:1000円(高校生以下500円)
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モーツアルト 交響曲第40番 チャイコフスキー「ロメオとジュリエット」 リムスキーコルサコフ 「スペイン奇想曲」 指揮 十川真弓
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主催: 後援: プレイガイド: お知らせ: お問合せ: |
その一、天才の悲劇 団長 佐藤育男
「どろぼうかささぎ」は、「セビリアの理髪師」を僅か13日で書き上げた天才の作品。その美しい音楽には、漲るエネルギーとジェットコースターのようなスリリングな快感がある。何小節にも亘るクレッシェンドがこの作曲家の特徴で、「ロッシーニ・クレッシェンド」と呼ばれている。そして、この長いクレッシェンドの到達点では輝かしい音の大爆発に発展する。 交響曲40番も天才モーツアルトがわずか1ヶ月半で一気に書き上げた三大交響曲の一つである。これほど短期間での作曲は、古来すべての音楽家から驚嘆の的となっている。聴く者にとっても、「誰もが通り、そしてまた帰ってくる」ト短調交響曲であり、必ず二度はのめり込む。
モーツアルトの短調については、あまりにも少ない作品に反比例するかのように多くの言葉が費やされてきた。曰く、デーモンの世界を覗かせるト短調、ベートーベンを先取りしたハ短調、死を予感させるイ短調・ホ短調(ソナタ)やニ短調(レクイエム)など、彼自身の苦悩を色濃く映し出していると言われている。
さて、この曲はわが国のモーツアルティアン(私は勝手に「モーツアルトの達人たち」と呼んでいるが)の人気投票でもベスト5に入る名曲なので、曲の解説は省かせて戴きこの曲を書いた晩年の生き方について思いを馳せてみたい。
「・・モーツアルトの作品は、ほとんど売れなかったようである。ぼくは、いかに、モーツアルトが、生涯自分の曲を売ろうと努力したか、ということに非常に興味をもつ。
あの厖大な六百余の作品のなかには、はっきり妥協した作曲と思われるものも少なくない。迫力や啓示にとぼしい、むしろ安易な作品もある。しかし、それらがすべて聴衆を意識し喝采を期待した所産だったにしても、なんと、どれもこれも、天衣無縫で明るく優雅なことだろう!たとえば、その前後のピアノ協奏曲にくらべて明らかに『わかりやすさ』を意識して作られたと思われる『K537』にすら芸術の真髄がある。しかも、それさえもついに売れずじまいだったとは! 一方、日本を代表するモーツアルティアンの一人石井宏氏は、機関紙「モーツアルティアン1983」の中で、次のように書いている。 「モーツアルトの三大シンフォニーは不朽の傑作でありながら、その生い立ちは謎に包まれている。まず第一に、その動機である。[だいたいモーツアルトは、芸術のための芸術家ではなかった。なにかの当てがなければ音楽は書かなかった。](「」の文章に傍点、筆者)しかし、当時のウィーンは真夏に音楽会を開くことはなかったから、これは音楽会の準備ではない。それでは金に困っていた彼が出版社に売り込もうとしたのであろうか?」 ・・さらに第二、第三の謎へと続くが、紙面の都合で省かせて戴く。 このように、モーツアルトの達人の間でもモーツアルト観は異なるのである。どちらが正しいと判断することは、浅学非才なものにとって難しい・・。だが、 思うに、モーツアルトは長い間流行作家なみに稼いでいた。ずいぶんと豪勢な生活をしたという記録もある。しかし、あるときを境にして自分の作品を厳しく意識しはじめたに違いない。その作品が敬愛する先輩に捧げた「ハイドンセット」ではなかろうか? ランドン著の「モーツアルト」(中公新書)には、「ふだんは流れるように書き飛ばすはずのモーツアルトがひどく苦労して書いた六曲の四重奏曲は、ハイドンに献呈されている。その自筆稿は現在大英図書館にあり、ファクシミリの形で手に入る。それらを見ると、彼にしては考えられないほどの抹消や、スタートのやり直し、変更、訂正を行っているのが目に入る。中略。これらの六曲は、卓越していると同時に問題の多い作品だった。単に演奏するのが難しいばかりでなく理解するのも難しい。特に“不協和音”という曲は難しすぎて聴きづらい作品だった。有名な逸話として、ある貴族の家で演奏されたときのこと、第一楽章が終わった途端、怒った公が楽譜を破り捨ててしまったという話がある。これは事実でないとしても、当時の様子をよく伝えている。」と書かれている。 その後、モーツアルトは次の時代を予測させるような傑作を次々に書くが、楽譜は売れず、当時人気のあったピアノ協奏曲の演奏会を開いても聴衆は集まらなかった。このように作品の芸術性と生活の窮乏の度合いは反比例していく。 その点、ロッシーニとは天と地の違いがある。ロッシーニの作品は売れに売れた。そのため彼は寝る間を惜しんで作曲した。次々とヒットをとばし一財産を築いた。そして、歌劇「ウィリアムテル」でも大成功をおさめ、国王から勲章を貰ったのち突然筆を折ってしまう。そのとき彼はまだ37才、モーツアルトが亡くなった年令だった。引退の理由は誰にも明かさず二度とオペラを書くこともなかった。その後ボローニャとパリに豪邸をかまえ、パリ郊外のパッシーに別荘を持った。毎週豪勢なパーティーを開き、ボローニャから白トリュフなどの食材や遠くペルーからも銘酒を取り寄せた。金に飽かした材料を用い稀代の「食通・料理名人として料理界に名を馳せた。音楽より料理の天才と呼ばれることを好み、「トウルネード・ド・ブフ・ロッシーニ(ロッシーニ風ヒレ肉の薄切りフォアグラ添え)」をはじめロッシーニ風と名の付いたレシピを数十種も残した。高級ワインとグルメを続けた結果、あらゆる成人病を患い莫大な医療費を払った。このように金を湯水のように使い、モーツアルトの倍の年月を生きたのちも、彼の遺産は今の相場で1億5千万円をくだらなかった。 ・・話を本筋に戻そう。 ト短調交響曲を書いた1788年、32才のモーツアルトは飢えに苦しんでいた。返済を迫らない友人に縋り、借金を重ねては売らんがための、結局は売れない曲を書き続けた。この名曲も出版社に売れたという記録はない。1791年12月5日、臨終の床で、彼は妻や子に十分なことをしてやれずに死んでいくことを激しく悔やんだという。 音楽史上並ぶもののない天才、オペラの本場イタリアの天才ロッシーニでさえ「北の国がモーツアルトを生んでからというもの、われわれ南国人は自分の土俵でも負けてしまった」と嘆いたように、全ての分野に天賦の才を発揮したモーツアルト、彼の悲劇は天才の芸術作品を時代が受け止めきれなかったことにある。 |
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